水子供養

水子供養

石垣から水子供養を想う

私が本山(黄檗宗大本山萬福寺)に在職の頃、会社の新入社員の養成の為、研修会が盛んに執り行われておりました。

一泊二日の研修会、若い熱気でこれからの人生に花を添える、人生の充実を見定める、会社の高揚の一つの手段としての研修会でした。

その中身は、早朝四時半に起床・朝のお勤め(読経)・日天作務(清掃)・食事、そして坐禅・講演会と午後九時就寝と時間に追われる修養でした。

個々の自由はなく、その不自由の中に自由を求める修養会、終えた時には新入社員の顔には安堵感が漂い、今夜は仲のいい友と一刻を過ごすその様な話が多かったのを覚えております。

研修会で読むお経があります。坐禅和讃(ざぜんわさん)です。

その冒頭を紹介します。

『衆生(しゅじょう)本来佛(ほとけ)なり 水と氷の如(ごと)くにて 水を離れて氷なく 衆生の外(ほか)に佛なし』

この世に生きとし生けるもの全てに佛心佛性が宿っている。

個々と佛とは、水と氷の如く水・氷は形態は違うが全てに佛心佛性があり、衆生の外に佛はないとされています。

すなわち、私たちは老若男女、貧富、賢愚、また人種・国籍・職業の別なく、すべての人に如来の本分である佛心佛性を宿しているという教えです。

その佛心佛性を見性し、実践することで、悉く(ことごとく)皆成仏といわれています。

先日、久しぶりに京都市に出かけました。

堀川通を北進、あの大政奉還の二条城です。

コロナ禍とはいえ、多くの観光客の姿が見え、駐車場も満車でした。

ふとお堀を見ると、整然と積まれた石垣が見えました。

加工を施されたお城の石垣です。

その美しさに少し見惚れながら、自然石で加工されていない石で組まれた石垣を思い出しました。

色・形・大小・石の年代・産地は違えども一つ一つの石がこの石垣を構成していると。

こころの要としない石など一つもないと感じました。

大きな存在の底の石、中間、上部の石、そしてその隙間を埋める石。

今の自分にはどの石に当てはまるのか家族構成を例に考えました。

底にある石ではない、上部の石でもない、角の石でもない。

中心より少し離れた程々の石かなと自讃しながら自分の存在に見合う石を考えていました。

小さな石(穴)は家族構成の何にあたるか、それは幼児又はこの世に光を見届けることが出来なかった、父や母の顔を見られなかった水子の穴かなと。

その小さな穴を埋める石は水子の存在かなと思案し、諺(ことわざ)を調べると、“蟻の一穴、天下の破れ”“千丈の堤、蟻の一穴から”とありました。

大きな石も小さな石もそれぞれの役目を持っていると。

小さな石(穴)もおろそかに扱ってはいけないと知ったわけです。

衆生本来佛なりと大小の石にも佛性があると、この世の中には無駄なものは一つもないということです。

ですから何一つ粗末に扱ってはならないということです。

この世に光を見届けられなかった水子、父や母、兄弟の愛を十分に受けられなかった水子、抱き上げてもらえなかった水子、しかしながら、彼らは彼らの役目を担って石垣のように家族構成の一員をなしているわけです。

先祖供養をすると同様に、水子の供養・追福を願うことも大事であると考えています。

宝善院では、水子供養の数珠掛け地蔵尊が祀られています。

日々、水子供養を受け付けてはいますが、お参りだけでもお越し下さい。

また、お寺へお参りできない方の水子供養も受付ております。

それぞれが出来る水子供養をそれぞれのタイミングで行って頂ければ幸いです。

どうぞ、いつでもお参り下さい。

水子供養の相談も受付ております。

水子供養永代供養墓の京都のお寺
〒611-0011 京都府宇治市五ヶ庄三番割34-3
宝善院(ほうぜんいん)
電話 0774-32-4683